成増駅から川越街道を赤塚新町方向に歩いて「成増小学校入り口」という交差点、そのすぐ脇の交番向かいに石碑と賽銭箱が置いてある。なんだこれは、と調べてみると漢字だらけの名前。なんとも目がすべる字面だが「こじべえくぼこうしんぞん」と読む。この長ったらしい名前、じつは2つの歴史ポイントが入っていた。
「小治兵衛窪」という地名は、小治兵衛(こじべえ)という盗賊に由来する。
「庚申尊」は、全国に古くからある民間信仰のようなもので祭った本尊のこと。
それぞれが今は目に見えない、成増の歴史を物語っていた。
小治兵衛が渡した橋
一帯を歩いてみると分かりやすいが、この交番前の川越街道は、どちら方向に進んでも長くてゆるい登り坂が続く。つまり、ちょうどここはへこんだ底部なのだ。かつてはこの窪地を、百々向川(すずむきがわ)が流れていた。昔は、街道といっても人通りは少なく、背の高い草と樹木にかこまれた薄暗い場所だったという。川には丸太をかけただけの粗末な橋があるだけ。急ぎの旅人はいやでもここを通らねばならない。そこで、たびたび盗賊が現れ、丸太の上で逃げられない人々から金品を奪ったのだ。
ところがある日のこと、川に立派な橋がかかっている。村人が驚いて近づくと、札にこう書いてある。
「ここで悪いことを数え切れないほどした。それを悔いて、罪滅ぼしにこの橋をかけた。 小治兵衛」
やがてこの橋は小治兵衛橋と呼ばれ、付近は小治兵衛窪と呼ばれるようになった、
というちょっとドラマチックな伝説が残っている。
マニア心をつかむ(たぶん)成増の庚申尊
次は名前の後半、「庚申尊」の部分だ。
平安時代ごろに中国から入ってきた考え方で、人の体内に住む特別な虫が決まった日(庚申の日)の夜に、体から出て天にその人の悪事を報告しに行くというので、その夜は眠らずに慎ましく過ごそうという風習があった。
ハデに宴会を開いて夜を過ごした時代もあったようだが、とにかく、この行事「庚申講」を長く続けた記念に建てたのが石の庚申塔や、青色金剛という本尊を彫った「庚申尊」だ。
すがたを変えつづけた民間信仰なので、説明がゴチャゴチャしてくるが、この庚申様である青色金剛は、安全の守り神でもあったようだ。成増の庚申尊は、天明3年(1783年)の浅間山噴火によって、地域でも飢餓などによる犠牲者が出たため、その供養に建てられたのだという。
庚申塔や庚申尊は、明治時代にその多くが撤去されてしまったが、関東を中心に各地で今でも見ることができるため、根強いファンがいるそうだ。区内では、板橋の観明寺にある庚申尊が寛文元年(1661年)にできた都内随一の古さ。名所的にはかなわないと思うが、成増のこの庚申尊は、座っているポーズが珍しいらしい。
造形もなんか、漫画っぽいというか、親しみやすいというか。芸術家じゃなく、村では腕の立つ人が彫りましたって感じがして可愛らしいと思う。
参考/「わがまち発見12 成増・赤塚」(リブロポート)、「信長の野望 歴史学習を考える(外部サイト)」
松本浄
最新記事 by 松本浄 (全て見る)
- 赤塚新町公園の少女像を追う - 2018年5月14日
- 土手の新しい楽しみ「荒川生物生態園」に行ってみよう - 2018年5月6日
- 小治兵衛窪庚申尊(読めない)を見てきた(成増) - 2018年5月1日
コメントを残す