板橋区と練馬区の境界線ギリギリにある赤塚新町公園。この写真の少女像を見たことあるだろうか。生き生きとした表情、そして何かを遠くに伝えようとしているようなポーズ。
いったいどんな場面なのだろう? 想像力をかきたてるが、普通は近くに表示してある「タイトル・制作者・制作年」などが見当たらない。
謎だらけの少女像
アートの世界では「答えはありません!見る人にお任せします!」というパターンがよくある。それはそれでかまわないのだけど、そうは言っても気になる点が多い。
見ればみるほど謎が深まる少女像。気になるのは、少女の抱える小鳥が、本物の設定なのか、玩具の設定なのか。アヒルの子どもも、なんか微妙な感じだ。両方本物という設定かもしれないし、そうじゃないかもしれない。シチュエーションはだいぶ変わってくる。
考えてもわからないので、区の主管課に電話で聞いてみる。
話は戦後までさかのぼることに
区に聞けば一発だと思いこんでいたのだが、全然そんなことはなかった。記録上、区で分かることはただ一つ。この赤塚新町公園がまるごと、昭和58年に区へ寄付されたものであるということ。すでに整備済みだった少女像については、情報がなかったのだ。
現在、光が丘公園と団地が並ぶ地域は、もともとは成増飛行場という飛行場があった。
1942年、日本は初めてアメリカによる本土空襲を体験し、東京を守るべく空の拠点の必要性をかみしめた。そこで現・光が丘地域の農地を強制買収し、わずか半年後に突貫工事で成増飛行場を建設。しかし1945年の終戦後、すぐに米軍に接収され、アメリカ人の居住地区「グラントハイツ」に生まれ変わることに。
国土地理院の空撮写真で見た感じだと、このグラントハイツは、ほとんどが練馬区だが、一部あるいは関連施設か何かが、ぎりぎり板橋区の区境まで来ていたようだ。
やがて時代とともにグラントハイツ返還運動が高まり、米軍もこれに同意。1973年には全面返還が完了した。ウィキペディアによると、このときの代替施設として横田飛行場が米軍に提供されたらしい。まだ赤塚新町公園は存在しないが、団地の建設が続々と始まった。
1983年に光が丘パークタウン、ゆりの木通りが完成。このとき同時に赤塚新町公園となる公園空間が整備され、板橋区に寄付される。寄付したのはおそらく、パークタウン光が丘の施主である住宅・都市整備公団(現・UR都市機構)だと思われる。もはやURに聞くしか道はない。
ついに作者とタイトルが判明
UR都市機構に問い合わせてみたら、4日後、返信があった。30年以上前のこと、しかも住宅・都市整備公団→都市基盤整備公団→URと2回も組織改編。さらには、商品の居住施設でなく公園設備の像の話題。じつは正直、無理かなと思っていたが、丁寧な回答をいただくことができた。すごいぜUR。
UR都市機構さんによると、この作品は杉並区の志津雅美さんが意匠・原型制作した作品で、タイトルは「おおい! こっちだよ」だという。作者さんのウェブサイトもあった。作品紹介ページはこちら。作者さんは、作品の設置場所を「赤塚光が丘公園」と書いている。いろいろ検索してもこのページがヒットしなかったわけだ。
タイトルがわかると、情景もほぼ判明した。少女が手にある小鳥は、玩具ではない。アヒルの親ファミリーの1匹が迷子になっているところを少女が保護し、川か何かで隔てられている場所から「おおい!こっちだよ」と声をかけているのだ。
物語を感じさせるユニークな少女像。赤塚新町公園へ行ったときは、ぜひ注目してみてほしい。
松本浄
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す、すごい!読み応えある記事。まるで推理小説を読んでいるかのよう。当たり前にある光景にも、こんなに深い展開があるなんて。さすが、板橋区。まだまだ探っていきたくなりました!